お友達の作・演出家さんからのお薦めで読みました。ドキュメンタリー映画「A」のことは知っていましたが、その映画作りの現場日記のような本です。「オウム」という言葉には古さを感じますが、「地下鉄サリン事件」は今も私の中では生々しい記憶です。
自分の感じたことをインターネットを通じて世界に発信している私にとって、非常に重要で勇気付けられる言葉がいっぱいでした。
★お役にたてたらコチラをクリック!お願いします♪
以下、「A」より引用。
事実と報道が乖離するのは必然なのだ。今日のこの撮影だって、もし作品になったとしたら、事実とは違うと感じる人はたぶん何人も出てくる。表現とは本質的にそういうものだ。絶対的な客観性など存在しないのだから。人それぞれの嗜好や感受性が異なるように、事実も様々だ。その場にいる人間の数だけ事実が存在する。ただ少なくとも、表現に依拠する人間としては、自分が感知した事実には誠実でありたいと思う。事実が真実に昇華するのはたぶんそんな瞬間だ。今のメディアにもし責められるべき点があるのだとしたら、視聴率や購買部数が体現する営利追求組織としての思惑と、社会の公器であるという曖昧で表層的な公共性の双方におもねって、取材者一人ひとりが自分が感知した事実を安易に削除したり歪曲する作業に埋没していることに、すっかり鈍感に、無自覚になってしまっていることだと思う。一人ひとりが異なるはずの感性を携えているのに、最終的な表現が常に横並びになってしまうのは、そんな内外のバイアスに、マニュアルどおりの同じ反応しかしないからだ。(p.171~172)
大切なのは洗脳されないことではなく、洗脳されながらどれだけ自分の言葉で考え続けられるかだ。信者たちの思考停止はある意味で事実だ。そして社会の思考停止も同様だ。鏡面を挟んだように、この二つは見事な相似形を描いている。 なぜ地下鉄サリン事件は起きたのか? ずっと抱き続けてきたこの疑問に対しての答えを、僕は今何となく思い描くことができる。混雑する地下鉄車両の中で、幹部信者たちがビニール袋に傘の先端を突き刺した行為の背景を、今はおぼろげに推察することができる。情愛を執着として捨象することを説く教義に従い、他者への情感と営みへの想像力を幹部信者たちは停止させた。その意識のメカニズムに組織に従属するメカニズムが交錯し、幾つかの偶然に偶然が最悪の形で重なり、その帰結として事件は起きた。しかし情感の否定はオウムの教義にだけ突出した概念ではない。すべての宗教にその素地はある。その意味では非常に宗教的な空白が、この事件の根幹にある。同時に「組織への従属」という、特に日本においては実に普遍的なメンタリティも同量にある。 そして被害を受けた日本社会は、事件以降まるでオウムへの報復のように他社への想像力を停止させ、その帰結として生じた空白に憎悪を充填し続けている。憎悪という感情に凝縮されたルサンチマンを全面的に開放し、被害者や遺族の悲嘆を大義名分に、テレビというお茶の間の祭壇に、加害者という生け贄を日々供え続けている。 狭間に立った僕は、どちらの側にも一歩動けず、いつまでも途方に暮れている。(p.175~176)
「A2」も買ってみます。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
●●●人気blogランキングに参加中!ポチっとクリックしていただけると嬉しいです。●●●
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
★“しのぶの演劇レビュー”TOPページはこちらです。
便利な無料メルマガ↓↓↓にも、ぜひご登録ください!