『昔の女』『シュート・ザ・クロウ』を経て、シリーズ・同時代【海外編】の最後を飾るのは、ドイツの劇作家デーア・ローアーさんが1992年に発表した『タトゥー』です。演出はチェルフィッチュの岡田利規さん。
ローアーさんの『最後の炎』をリーディングで拝見し、ものすごく面白かったので期待して伺いました。上演時間は約1時間40分。
今回も作家さんを迎えた新国立シアタートーク特別編の日に伺いました。トーク終了後にはローアーさんの戯曲本サイン会も開催されました(1680円。購入者向け)。
※劇場入り口には舞台美術の塩田千春さんの作品(チラシの写真)が展示されています。
※番外連続リーディングVol.3は『タロットカードによる五重奏のモノローグ』です(⇒Vol.1レビュー、⇒Vol.2レビュー。シリーズ・同時代【海外編】3作品の半券(実券)があれば無料で観られます。
⇒CoRich舞台芸術!『タトゥー』
レビューをアップしました(2009/05/22)。
≪あらすじ≫ 公式サイトより。(役者名)を追加。
気さくで働き者で家族思いの父(吹越満)、家事と仕事を両立しながら控えめに家を支える母(広岡由里子)、仲良く喧嘩するしっかりものの姉(柴本幸)とやんちゃな妹(内田慈)、どこにでもある普通の平穏な家庭、それはこの家族の一表面であると同時に「なんとしても失いたくない」心の拠り所になっている。その願いの陰で行われる父の蛮行。
長年かけて築いてきた温かい家庭の体面を保ちたい母ユーレは、娘の犠牲を見て見ぬふりをするが、自分を統括しきれず自虐行為で発散する。そんな母を軽蔑し、父の愛が姉だけに向けられているのを妬む妹ルルは、自分の未熟とコンプレックスを攻撃性に変える。家族のため、家族が崩壊したら困る自身のため父との関係を受け入れる姉アニータは、平穏な日常と残酷な悪夢の間を行き来する。マイホーム・パパを自負する父ヴォルフは、家族の依存心を利用して野蛮な慣習を正当化し、強大な支配力を発揮していくが、実はそんな家族に誰よりも依存しているのがこの父であった。
そんな日常の中、花屋の店員パウル(鈴木浩介)との出会いによって、アニータに訪れたまたとない「機会」は、諦めかけていた未来への希望を蘇らせるが……。
≪ここまで≫
黒い劇場に、無数の白い窓枠が吊り下がっています。その底に、ぽつん、ぽつんと人間が居ます。オブジェの中に人が埋まっているような、いえ、人も含めた全てが現代美術作品のような空間でした。客席にも常に照明が当たっていて、作品の中に没頭することを許してくれません。緊張が途切れることのない刺激的な作品でした。
ものすごく、怖かった・・・・。静かだけれど非常に暴力的で、官能的で、目に映る強烈な美しさを瞬間ごとに味わいました。そして、その場で起こる現象のあまりの恐ろしさに、震えながら涙しました。
白いいびつな衣裳に身を包んだ俳優は頻繁に、身体に合わない衣服をいじったり、体を掻いたりしています。セリフの言葉の意味どおりの発音・動作はしません。でも、声の響きや発語される言葉には、何らかの硬質な意思が通っているように感じます。パっと見は人形のようでもありますが、血の通った、熱を持つ人間であることも、ありありと伝わってきました。
すごく単純な考えですが、自分のために誰かを犠牲にしたら、やっぱりその報いは自分に返って来ますよね。もちろんそんなことを結論に描きたかった戯曲じゃないと思いますけど、「なぜこんなことになったんだろう」と考えたら、そんな答えが出てきました。
でも、破滅に向かって突進するあわれな家族のことを「可哀そうだ」なんて全く思いませんでした。ただ、そこに居る愚かな人間たちを冷静に見つめて、起こった出来事そのもの(声、動作、音響、照明、美術の変化など)を自分の感覚で感じ取って、そこから先へと思索を続ける体験になりました。
俳優の動作・状態が未来を予言していることに、後から気づきました。現実世界も実はそうですよね。人間は体で(目で見て)わかっているのに、わざとそれに気づかない振りをすることがあります。失敗するとわかっていても実行したり、嫌われるとわかっていることを、わざとやってみたり。
ここからネタバレします。セリフは戯曲本より引用。
母(広岡由里子・犬の着ぐるみ着用)が家出をしたため、父と2人きりで暮らすことを恐れたルルは、結婚した姉アニータとパウルの家に逃げてきます。しかしパウルは、やがて生まれる子供と自分たち夫婦のことだけを考え、ルルを追い払います。ルルは案の定、父に妊娠させられ、父は「お前がママの代わりをしろ」と、アニータに家に戻るように説得しにやってきます(ものすごく高圧的に)。
恐ろしい父から逃げられないと知り、そして夫婦関係にも絶望したパウルは、とうとう拳銃を手に入れました。彼はアニータに拳銃を手渡します。「君は僕を犯罪者にはできない やってみろよ ひとりで アニータ」。そしてアニータはパウルに銃口を向けて・・・(比較的に軽やかな音楽とともに終幕)。アニータはたぶん、パウルを撃っただろうと思います。
パウルとアニータのラブシーンだったと思うのですが、音楽に「からたちの花」が流れました。ロマンティックだけれど、ウィスパー・ヴォイスの歌が恐ろしくもあり。窓に映す日本語字幕もクール。
私にとって最も強烈だったのは、妹ルル(内田慈)があおむけに寝転がり、下半身だけを投げ出すように上に蹴り上げてから、バタン!バタン!と床にたたきつける動き。無骨な動きなのにものすごくエロティック。いずれ彼女も父親にレイプされることが暗示されました。
≪シアタートーク特別編≫ メモしておきたかったことを少し記録。
出演(舞台下手より):佐藤康(司会。フランス語教師・フランス現代演劇研究)、鵜山仁(芸術監督)、岡田利規(演出)、三輪玲子(翻訳)、デーア・ローアー(劇作家)、ドイツ語通訳の女性
岡田「翻訳劇の良いところ(の1つ)は、好きな日本語に直せるところ(もともとが日本語だと、そういうわけにはいかない)。」
三輪「ローアー戯曲の特徴は詩的であること、言葉が少ないこと、人工的に整えられていること。ドイツ演劇によくある“(現実の)社会問題を描いた芝居”ではあるけれど、新しい切り口の演劇テキストである。」
岡田「僕はリアリズムをやらない(と決めている)のではなく、リアリズムから出発して、遠くまで行こうとしている。むしろそれ(リアリズム)以外の出発点を見つけられていない。」
岡田「僕はリハーサルに入るまでは何も決めない方なのだけれど、この戯曲は『絶対にリアリズムの方向ではいけない』ということはわかっていた。」
※ここでの「リアリズム」とは「心理的リアリズム演劇」のことだと思います。
ローアー「アメリカで上演された時は、翻訳家とのやりとりが困難だった。私がせっかくばらばらに解体した言葉を、翻訳家が(わかりやすい言葉を追加して)整えてしまうからだ。それでは異化の効果がなくなってしまう。」
ローアー「ドイツではリアリズム演劇と非リアリズム演劇についての議論がよく起こり、収まったかと思ったらまた起こるということが(何十年も)繰り返されています。私は、そんな議論はもうしなくてもいいと思っています。なぜかというと、演劇はそれ自体がリアルではなく、虚構だからです。俳優がどんなにリアルな演技をしたとしても、そもそもが嘘なのだからリアルには成り得ません。リアリズムの手法はむしろテレビ(映像)の方が有効だと考えます。だから演劇は、より演劇らしい、演劇にしかできない方法で作るべきだと思います。」
岡田「僕もそう思います。」
観客「最後のリンゴの意味は?」※パウルの頭上に赤いリンゴがスっと降りてきた。
岡田「窓(ウィンドウズ)ばかりの舞台装置なので、アップルがあってもいいんじゃないかと(場内爆笑)。いえ、もちろんリンゴは原罪の象徴でもありますけど。例えばパン(父がこねる)は肉の表象だというのも有名ですよね。」
※他にも意味はありそう。でも言及するのは控えた様子。
新国立劇場演劇2008/2009シーズン シリーズ・同時代【海外編】Vol.3
出演:吹越満 柴本幸 鈴木浩介 内田慈 広岡由里子
脚本:デーア・ローアー 翻訳:三輪玲子 演出:岡田利規 美術:塩田千春 照明:大迫浩二 音響:福澤裕之 衣裳:堂本教子 ヘアメイク:中井正人 演出助手:宮越洋子 舞台監督:米倉幸雄 芸術監督:鵜山仁 主催:新国立劇場 協力:ドイツ文化センター
【発売日】2009/03/14 A席:4,200円 B席:3,150円 Z席:1,500円
http://www.nntt.jac.go.jp/season/updata/20000066_play.html
※クレジットはわかる範囲で載せています。正確な情報は公式サイト等でご確認ください。
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