初日の後に知人を連れてもう一度、二度という風に、合計三回鑑賞しました。こんなに通ったのは本当に久しぶりです。チェルフィッチュ『三月の5日間』以来かしら。あれはトークなど含めて7回でしたが。上演時間は105分とアナウンスされていました。
⇒Yahoo!ニュース「偉大な哲学者が戦地で到達した真理とは? 舞台『従軍中のウィトゲンシュタインが(略)』が開幕」
⇒休むに似たり。レビュー
⇒CoRich舞台芸術!『従軍中のウィトゲンシュタインが(略)』
まるで作品に恋してしまったかのように(笑)、こまばアゴラ劇場に通いました。不思議なものです。おそらく観る・聴くだけでなく体験するタイプの作品で、役者さんの演技が毎度新鮮だからだと思います。回を重ねて人物の背景が濃くあらわれるようになり、軽いBL色が薄まっていたのも良かったです。
あらためて言葉というものの機能を、正体を、知り直したように感じました(まだまだ奥深いものなのだろうけど)。こんなにも言葉というものを、言葉という存在として味わったことはなかったです。もっと言葉を覚えて、もっと世界を知って、私を満たしたい。言葉を大切に扱って、私の分身のように、身にまといたい、そんな気持ちになりました。
私はいつも、知ったような気でいて本当は知らなかったことを、劇場で学び直します。私にとって劇場に行くことは、教会に行くことと似ていると、以前にツイッターに書いた覚えがあるのですが、この作品はまさにそれでした。ごく個人的なことですが、ここ最近で仕事の方向性や生活自体が変わるような出来事が重なったのもあり、偶然に、私の人生の何らかの契機と呼べる公演になったようです。
メルマガ号外発行に至らなかったのは、振れ幅が大きそうで、ステージごとにかなり違う仕上がりになるだろうと予想したからです。完成度や質感、臨場感といった尺度において、常に高得点を叩き出すかというと、それは難しいんじゃないかと。それに、私が考え付いた尺度に信憑性があるとは思えなくて、「正解」が見えなかったから、ですね。ぜひ劇場で、ご自身で体験して、確かめてくださいませ!
※このタイミングで下記ブログを読みました。「言葉は人間そのもの」ですね。
⇒観察映画の周辺 Blog by Kazuhiro Soda『言葉が「支配」するもの 橋下支持の「謎」を追う』
ここからネタバレします。作品紹介というより個人的解釈を述べただけになっています。
言葉は、世界を絵画のように写し取ることができる。さらには目の前の現実とは違うこと、偽なることもあらわすことができる。たとえば過去や未来を語ったり、夢、希望、空想を語ったり。でも、言葉を知らなければ、そもそも語ることはできないし、考えることもできません。たとえば「宇宙」という言葉が何をあらわすかを知らなければ、宇宙を想像できません。劇中ではルートヴィヒとピンセントが通っていた大学の名前や、三月うさぎ、トランプの女王など、知る人ぞ知る固有名詞も出てきました。これも2人が知っているから語り合えること。2人は地球、太陽系、宇宙と想像を広げて行きますが、名前や意味を知っているから、想像し、言葉にして、語ることができます。人間は言葉にならない(知らない)ことについて、思考することはできないのです。ということは、知っている言葉が増えれば増えるほど、思考もできるし語ることもできる。つまり言葉は、中身も外見も含めたその人自身をあらわすのだと気づきました。
ルートヴィヒは「宇宙は暗い」という事実を言いますが、ピンセントは「宇宙は明るい。なぜなら君がいるから」と答えます。世界に自分一人しかいなかったら、人間は自分の存在を確認できない(はっきりしない・あいまいだ)から、すなわち不在(闇・無)になる。誰かが自分を認識してくれて初めて、人間は自分の存在が確かになるのです。それが、光。冒頭の聖書にもつながりますね。「はじめに言葉ありき」「闇は光に勝たなかった」。塹壕の暗闇よりも、ライトが当たる哨戒塔の上を選ぶカミル(井上裕朗)の気持ちもわかる気がします。ルートヴィヒは、向かってくるロシア軍を目視するまでは彼にとっての戦争があいまいで、戦場にいるという確信が得られないと考え、哨戒塔に登る決意をします。命が狙われ絶体絶命になった時に、はじめて彼の命の存在がはっきりするから…。
スタイナー軍曹の「勝つ時は勝つ、死ぬ時は死ぬ」「負けない限り勝つ」といったうセリフは、本当に何も言いあらわしていないですね。そして彼はくじ引き(運)にこだわります。前説でタイトルを語り聖書を朗読するのも彼ですし、最後にランプの火を消すのも彼。舞台中央に登場してから、なぜか無言の間(ま)を長く取ったり、机の周囲をゆっくりと歩きながら、不思議な発語方法で歌うように長いセリフを言う場面もありました。それは、彼は登場人物“スタイナー軍曹”であると同時に、“神”を象徴する存在だったのだと、私は解釈しました。なのでスタイナーを演じた榊原毅さんだけが、色合いの違う演技方法だったことは、違和感とともに納得して受け取りました。
“スタイナーの趣味は読書”の意味って何だったんだろう…。人間は、小説の意味が分からなくても胸にグっと来たり、神の存在自体が確かめられないのに祈ったりします。この記事で読んでハっとしたんですが、どうやら「神は感じるもの」だと解釈していいのではないでしょうか。自分が感じれば、それは存在する、としてもいいのでは…? ルートヴィヒはピンセントにあてた手紙の最後で、こう断言しました。「今や、愛もまた、疑い得ない」。愛の存在は証明できないですが、言葉にすることでルートヴィヒの気持ちは確かになりますよね。言葉にして声に出し、書いて文字にすれば、定着します。
暗闇のシーンの終わりに、ランプに火がついたのかどうかという謎が残されました。ミヒャエルは「つけました」と言ったけど、実際には火はついていませんでした。禅問答のようです。あのシーンは、舞台だけでなく客席までもぼんやり照らしてしまうLEDの不思議な質感の明かりも含めて、「外側」の世界だったと思います。この物語の「外側」であり、登場人物、俳優、観客すべてにとって、「内側にいたら決して見えないはずの外側」をあらわしたものだったのではないでしょうか。
最後にピンセントが1ヵ月前に既に死亡していたことが判明し、舞台上に登場したピンセントは、ルートヴィヒの想像であったことが明らかになります。ルートヴィヒはピンセントに手紙を書くことで「仕事(哲学の研究)」の進捗を確認していたし、仕事(思考)中もピンセントと対話をしていましたが、それは全部、ルートヴィヒの頭の中で作りだしたことだったんですね。よく考えてみたら、人間は同じものを見ていてもそれぞれに違う感想を持つし、そもそも同じものなんて見ていないこともあります。突き詰めて行くと、人間は他者と全てを理解し合うことは不可能で、何をしようとしなかろうと、人生の全ては自分一人だけのもの…。そう腹をくくった方いいのかもしれません(どうやら私はまだその境地には至っていないらしい)。
作・演出の谷賢一さんのツイッターを読んでいると、彼がこの作品を経て大きく変化しようとしている(おのずと変化を迫られている)ことが感じ取れます。彼の次回作(戯曲)が楽しみになりました。
Théâtre des Annales vol.2従軍中の若き哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがブルシーロフ攻勢の夜に弾丸の雨降り注ぐ哨戒塔の上で辿り着いた最後の一行“──およそ語り得るものについては明晰に語られ得る/しかし語り得ぬことについて人は沈黙せねばならない”という言葉により何を殺し何を生きようと祈ったのか? という語り得ずただ示されるのみの事実にまつわる物語」
出演:伊勢谷能宣(ベルナルド)、井上裕朗(カミル)、榊原毅(スタイナー)、西村壮悟(ルートヴィヒ)、山崎彬(ミヒャエル)
脚本・演出:谷賢一 舞台監督:川田康二 照明:松本大介 美術:土岐研一 WEBデザイン:仮屋浩太郎(HiR design) WEB作成:三浦学 宣伝美術:今城加奈子 写真撮影:引地信彦 ドラマトゥルク:野村政之 制作:小野塚央 赤羽ひろみ プロデュース:伊藤達哉 企画制作・主催:テアトル・ド・アナール、ゴーチ・ブラザーズ 協力:DULL-COLORED POP、青年団
【発売日】2013/02/23 整理番号付き自由席 前期(3月31日まで)3000円/当日券 3300円/U25 2500円後期(4月7日まで)3500円/当日券 3800円/U25 3000円未就学児童は入場不可。
http://www.theatredesannales.info/
http://www.komaba-agora.com/line_up/2013/03/theatredesannales/
※クレジットはわかる範囲で載せています。順不同。正確な情報は公式サイト等でご確認ください。
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