SPAC・静岡舞台芸術センター(⇒公式ツイッター)が「ふじのくに⇄せかい演劇祭2015」を開催します(過去エントリー⇒1、2、3、4、5、6&7)。
昨年に続いて今年もゴールデンウィーク期間です。SPACの演劇作品は新作2演目と再演1演目、日本からは鳥取の「鳥の劇場」のお芝居が1演目と、静岡で新製作する体験型演劇が1演目。海外からは台湾、韓国、レバノン、ベルギーの4演目が来日します。
映像上映や連続シンポジウム、お茶詰み体験や地元ホームステイ等、関連企画も盛りだくさんです。
※長いレポートですので、写真を目印にして、気になる演目からご覧ください。
●SPAC「ふじのくに⇄せかい演劇祭2015」⇒公式サイト
2015年4月24日(金)~5月6日(水・祝)
会場:静岡芸術劇場、舞台芸術公園、他
⇒BricolaQ「SPAC「ふじのくに⇄せかい演劇祭」プレス発表会」(落雅季子)
⇒Next「コア・コンセプトは、アングラ演劇50年」
【写真↓左から(敬称略):ダニエル・ジャンヌトー、鈴木一郎太、西尾佳織、宮城聰】
■アンスティチュ・フランセ東京館長のジャン=ジャック・ガルニエさんのご挨拶
ガルニエ:毎年このように「ふじのくに⇄せかい演劇祭」のプレス・カンファレンスを行えることを大変光栄に思っております。SPACは何年も前からフランスの重要な劇作家、演出家を数多く招聘しており、そこから数々の作品や出会いが生まれています。
今年は演出家のダニエル・ジャンヌトーさんが来日し、同演劇祭で新作『盲点たち』を発表します。ジャンヌトーさんは2009年の『ブラスティッド』、2011年の『ガラスの動物園』に続いて、今回で3度目の来日になります。このような蓄積が日本とフランスの交流の核となり、豊かで強く結ばれた関係が築かれているのです。
この場をお借りしまして、宮城様、SPACの皆様にお祝いを申し上げたいと思います。昨年のアヴィニョン演劇祭でのご成功、おめでとうございました。それでは、今年の演劇祭の豊かなプログラムについて宮城さんのお話を伺いたいと思います。
■芸術総監督より「ふじのくに⇄せかい演劇祭2015」のテーマ、全体概要について
宮城:今年のコンセプトは“アングラ演劇50年”です。僕の前にSPACの芸術総監督をされていた鈴木忠志さんが創立された早稲田小劇場が、今年でちょうど50年目になります。1960年代の半ばに早稲田小劇場、状況劇場、天井桟敷、転形劇場、あるいは黒テントの前身の団体が活躍し、日本のアングラ小劇場運動がスタートしました。50年も経ったことに驚きます。50年目にしてその遺産がいかに継承されているのか、あるいは発展を見せているのかを見ていただきたい。これが1つ目です。
もう1つは、日本のアングラ小劇場ムーブメントと似た、一種のシンクロニシティーとして海外で登場した、オルタナティブな表現。海外で生まれた双子のようなものを見ていきたい。アングラ小劇場ムーブメントの核となる考えとは、ひとことで言うと反・権威、半・自然主義。それからフォークロア、つまり民族的なもの、プリミティブなものに対するリスペクトですね。そして「芸術以下」と見なされていた身体芸やサーカス、あるいは呪術といったものの復権。そういうものを共有している表現を、海外から集めたプログラムになっています。
■SPAC『メフィストと呼ばれた男』(日本) 写真:(C)日置真光 ⇒公式サイト
解説:ヒットラー政権下、ドイツ最高の俳優と呼ばれながら、時代に翻弄された天才俳優の姿を通し、芸術とは、劇場とは一体誰のものかを問う、社会派作品です。昨年のアヴィニョン演劇祭で絶賛された『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』以降、挑戦を続ける宮城聰の日本初演作品です。
宮城:この戯曲を書かれたトム・ラノワさんは僕とほぼ同い年のアントワープの劇作家です。なぜ僕が、自分の得意なジャンルとは言えないリアリズム的な演劇を取り上げることにしたかと言うとですね、あの…非常に、僕はまあ…数年前までは全く想像していなかったんですが…ひとことで言うと、日本が、戦争に近づいている。戦争する国に近づいている、という状況に突入してしまってですね、公立劇場はこういう時に何ができるんだろう、あるいはどうすればいいんだろうと考えていたんですね。その時の唯一の参考例がドイツだったんです。つまり1930~40年代にかけて、ヨーロッパを震源として戦争に突入していく時代に、公立劇場の制度が整っていたのはドイツだけだった。ですので第二次世界大戦直前に公立劇場がどうしたか、あるいは公立劇場のアーティストがどうしたかを学ぶお手本はドイツの公立劇場だと考えて調べてみたところ、このトム・ラノワさんの戯曲を思い当たったわけです。
もともとはトーマス・マンの息子であるクラウス・マンが1936年に出した「メフィスト ある栄達の物語」という小説です。ナチス政権自体が右肩上がりの時代の中で、ベルリンの国立劇場(正しくはプロイセン州立劇場かもしれませんが)の芸術監督だった男が、いかにして出世していくのかを描いています。その後、イシュトバン・サボーというハンガリーの監督がドイツで映画化したり、フランスの太陽劇団が舞台化したりしています。今回上演する『メフィストと呼ばれた男』(原題:Mefisto For Ever)はその小説を基にはしているんですが、かなり自由な翻案をされている前半部分と、さらにその後、1945年ぐらいの状況までを書き継いでいる作品なんです。
僕は、日本に公立劇場が増えてきている中で、公立劇場の芸術監督やそこで仕事をする俳優やスタッフたちが、この戦前のドイツの公立劇場のことを考えるきっかけを提起したい。僕一人では到底、答えの出ない問題なんですが、この作品を上演することで皆が考えるきっかけになったらいいなと、切実に思っています。皆が考えるところから連帯が生まれていけばいいなと、今、切実に願っています。
宮城:『メフィストと呼ばれた男』は、僕にとってはほとんど初めてに近い“リアリズム式”の演劇です。「1932年に本当にこういう人たちがいた、そしてそれは今の僕たちに本当に近い存在なんだ」と思ってもらう。そういう意味で、極めてリアルであることが求められるタイプの戯曲なんですね。こういう戯曲をそっくりそのままの形で演出するのは、僕にとってはほぼ初めてのことなので、大コケするかもしれないんですけれども(笑)、ここに込められた問題意識を一人でも多くの方に共有していただければと思っています。
時事通信記者:宮城さんは今の政治、社会情勢の中で今年が決定的な年になるというご認識だと思いますし、それは私も共有しているところです。今年、演劇人も含む表現者がこの1年で何を、いかに表現したかは、20年、30年後まで評価をされ続けるのではないか。その意味でも非常に重みのある時期だと思うんですが、その中で宮城さんは敢えてリアリズムに基づいた作品を、もしかしたら今までよりもリアリズムよりの演出で表現することを選択された。そこにはどういう意味があるんでしょうか。
宮城:(熟考の末に口を開いて、静かな声で)どんな作品を作る時ももちろん、僕は過去を参照するわけなんですが…特に日本では公立劇場がまだ黎明期で、言ってみれば今、公立劇場にいる人は皆、もっぱら「公立劇場を根付かせなければいけない」という方向でがんばっている。根付かせる時の“気の遣い方”として結果的に、その時代の空気を読む方向に行ってしまう。「今、こういう空気だよね」と空気を読み、それに従うことによって、自分たちをその地域に根付かせようと考えてしまう。…そういうことが…起こりやすい、あるいは起こっているのではないか。
作品が本当に固有の状況を考えるヒントになるためには、メタファ(比喩)を使えないような気がしたんですね。何らかの意味で普遍化する手法は使えないんじゃないかと思って。「本当に今、1932年のベルリンの公立劇場にいたら。自分がスタッフ、俳優、演出家としてその現場にいたら、どういう風に考えるんだろう」と、特有の状況に自分を置いて考えて欲しい。僕も考えているんだけど、皆もこのことについて考えてみて欲しい。少しでも仲間を増やしたい。そのためには今申し上げたように、一切抽象化できないんじゃないかと思ったんですね。
■SPAC『ふたりの女 平成版 ふたりの面妖があなたに絡む』(日本) 写真:(C)橋本武彦 ⇒公式サイト
解説:50年に渡り日本のアングラ小劇場演劇シーンを疾走してきた唐十郎の『ふたりの女』。小劇場スピリットを燃やし続ける宮城聰が、その演出術を駆使した初演から6年。再演を熱望する声に応え、伝説の舞台が野外劇場に帰ってきます。
宮城:アングラ小劇場ムーブメントが始まった1960年代は、まさに政治の時代だったと言ってもいいと思うんです。僕はまだ小学校1年生ぐらいだったんですが、母親が仲間たちと「日本にもう一度徴兵制が布かれたらどうしよう」と話していたり、母親が「そんなことになったら、息子の代わりに私が行く」と言うのを、子供心に聞いた覚えがあります。そういう時代に、社会とアーティストにどういったかかわり方があったのかを、今回の演劇祭を通じて考えることが出来たらと思っています。
“政治の季節”という言い方はちょっと軽いかもしれないですが、今回はベイルートの作品も上演します。政治の嵐が吹き荒れている中で、人間の生、すなわち生きることそのものを見つめたい。あるいはその暴風雨の中で、自分がなぎ倒されていかないように、どういうことを考えなくちゃいけないのか。自分というものを地に立たせるために、もう一度自分の中を見るにはどうしたらいいのか。そういうことも今回の演劇祭を通じて考えていきたいです。
『ふたりの女』においても、最初の場面にはデモ隊が登場します。政治の暴風雨、たとえば今日でいえば“排外主義の気分”といったものが、ものすごい勢いで吹き荒れている中で、風になぎ倒されずに自分を見つめていく1つの手法として、演劇をもう一度見直していきたいと思います。
■ダニエル・ジャンヌトー演出・SPAC『盲点たち』(日本・フランス) 写真:(C)Pierrick Blondelet ⇒公式サイト
解説:人間の深い闇や絶望をあらわにするメーテルリンクの作品。そこでは沈黙や生活が重要な意味を持っています。本作の上演エリアは闇に覆われた静岡、日本平の山の中。声と気配によって浮かび上がる生と死の深淵は、まさに劇的な体験となるでしょう。世界初演となるSPAC『盲点たち』、どうぞご期待ください。
ジャンヌトー:今回、日本に戻って来るのは3回目です。SPACで3度目の仕事をさせていただくことになり、本当に幸せだと思っております。というのは、私はSPACのチームをとても愛しているからです。SPACで2回、作品を作った経験は、私の仕事上でも人生においても、最も重要なもののひとつだと思っております。宮城さんが作り上げたこのカンパニーの皆さんのお仕事は、真面目さ、情熱が他のカンパニーと比べても深いものであり、そのおかげで私がいつも演出家としてやっている仕事よりも、もっと遠くまで行けるような気がしています。
「メーテルリンクの『盲点たち』を日本平の森の中で上演する」という宮城さんからのご提案は、この作品をより深い意味を持って上演できる環境を与えてくださいました。人間の普遍的なものを表現するのに適した環境だと思います。
『盲点たち』はメーテルリンクの一幕劇のシリーズの短い作品の1つです。そのうちの1つである『室内』はSPACでクロード・レジさんが演出されました。これらの作品はもともと人形劇として書かれ、人間のいわば“内部”で上演されることを前提として書かれた作品です。この作品は非常にドラマティックで、まず一番初めは一人の神父に連れられて、12人の盲人たちが森の中にやってきたところから始まります。そして彼らの唯一のガイドである神父が、彼らを置いてどこかに行ってしまった…と思いきや、盲人たちはやがて、神父が彼らのすぐそばで亡くなっていることを発見します。森から連れ出してくれるはずのガイドが亡くなっていると気づき、盲人たちは自分たち自身の死の予感さえ感じるようになっていきます。
というわけで、一見、暗いお話なんですが、メーテルリンクはベルギーのフランダース地方の出身で、フランダースにはブリューゲルという有名な画家がおりますように、ブリューゲル作品によく見られるある種のユーモアがふんだんに含まれている作品でもあるのです。フランス語で書かれた演劇作品の歴史においても、非常に動きが少ない作品であるにも関わらず、最もラディカルで、最も暴力的であるとも言えます。
稽古を始めてもう2週間ぐらいになるんですが、稽古をする度にこの作品がいかに普遍的かということに気づかされます。非常にシンプルな言葉で書かれており、プロフェッショナルな俳優、それからアマチュアの俳優がセリフを口に出す度に、その言葉が本当に彼らの口から出たように感じられることがよくあります。素晴らしいチームを提供していただけたので、稽古をしていてとても楽しいです。俳優たちはそれぞれに演技のスタイルも表現の仕方も全く異なります。『盲点たち』は人類全体を表現しているような作品なので、それが非常によく伝わるチームになっております。私は日本の俳優が大好きです。私は日本に来て日本の俳優と仕事をしている時の方が、自分がいい演出家になっている気がします(笑)。ありがとうございます。
宮城:僕は昔から、そして今も、人形劇にとても興味がありまして、演出で2人1役という手法をずっとやっております。生身の俳優を敢えて人形のようにしていく手法です。『盲点たち』の場合はその逆で、そもそも人形劇のために書かれたメーテルリンクのこの戯曲が、生身の俳優によって演じられれば、通常の演技のコード(code)や、ありきたりの文法が使えなるんですね。僕の関心と全く反対のアプローチなのに、僕が見たいもの、似たようなものが見えてくる気がしていて、とっても楽しみにしています。
The Japan Times記者:どういう鑑賞方法になるのかを教えてください。
ジャンヌトー:1公演で100人ぐらいのお客様に観てもらいたいと思っています。照明も衣装もございません。俳優にはその日、着ている服で出てもらいます。観客は舞台芸術公園のBOXシアターの近くに集合し、そのまま谷底の方に降りて行って、皆で森の中をさまよっていただきます。この作品に登場する12人の盲人たちと同様に、観客がBOXシアターから森の中へと歩いて行くところから、作品が始まっているようにしたいと考えています。
フランスでは1年前に上演したんですけども、会場は劇場でしたし、全く違う条件でやりました。2つのバージョンの共通点は観客と俳優の間に全く違いがないことです。観客には森の中の開けている場所でイスに座っていただきます。イスはあらゆる方向を向いており、どこを向けばいいというものはありません。俳優も観客も混じり合っていて、観客が座ると同時に俳優も座ります。俳優は12人で、あちこちに散らばっています。観客が「なんだこれは!」と怒りだして、事件が起こってしまった…という感じで、俳優が話し始めるのです。日常生活の中からお客さんを手でそっとすくい上げて、だんだんと非日常的な体験へと連れて行くような作品です。非常に特異な、極端な経験にまで連れて行きます。
ジャンヌトー:この作品は30年以上前、私が少年の時に出会い、そのころから上演したいと思っていました。さらに言うと、これは私が演劇をやりたいと思ったきっかけになった作品だと思うんです。宮城さんが先ほど「1960年代に民衆的な演劇を求める」という話をされていました。この作品はまさしく誰の手にも届く作品でありながら、人間の非常に深い心理、深淵を語ることが出来るものです。その意味では理想的な作品だと思います。
最後に付け加えますと、この作品では全く何も、見るものがありません(笑)。私は演出家になる前は長らく舞台美術家として活動しており、たとえばクロード・レジ作品の装置を作っていました。私の舞台美術家としての野心は、舞台の上に美しいイメージを作るのではなく、観客の心の中に強烈なイメージを作ることでした。この作品はまさに、全く何も見ないのに、見終わると、心の中に沢山のイメージが生まれ、観客がそれを持って帰ってくれるものだと思います。私は観客の想像力、クリエイティビティを深く信じています。
■『例えば朝9時には誰がルーム51の角を曲がってくるかを知っていたとする』 ⇒公式サイト
演出:大東翼[(株)大と小とレフ]、鈴木一郎太[(株)大と小とレフ]、西尾佳織[鳥公園]
解説:さまざまな土地で滞在製作に取り組んできた演劇ユニット“鳥公園”の西尾佳織さんと、地元静岡で個性的な活動を続ける2人がタッグを組んで、町が舞台の演劇に挑戦します。SPACがある静岡市駿河区池田地区に出現する架空の町をめぐる冒険。演劇版ロールプレイングゲームのような作品です。世界初演となるSPACの体験型演劇です。
鈴木:今回はSPACのこの機会に呼んでいただいて、非常に光栄なんですが、戸惑っています。ご存知かと思いますが、僕は演劇の経験は皆無です。僕を支えてくれる唯一の頼りは、このポスターに書いてある「さっ、出かけましょ!空気を読まなくていい世界へ。」というキャッチコピーですね(笑)。演劇界から呼ばれて、空気を読まないという役割を、最後までちゃんと全うしたいと思っています(笑)。
普段は商店街の街づくりや福祉業界での仕事、木こりたちとのプロジェクトなど、街のいろんな場面でアートプロジェクトを展開することを生業としています。とんでもないほど多数おこなわれている日本のアートプロジェクトの中でも、街を舞台にしたものは多く、街を舞台にした演劇のことも聞いております。その中で「違った視点で街を見ると、こんなものが、あんなものが見えてくる」「街の暮らしが見えてきて面白い」といったものが大半を占めることが気にかかっています。そこには「社会の中でアートがこれだけ結果を出せるんだ」という成果を出すためだったり、「街に効果を残したい」という思惑があると思うんですね。ただ今回はその軸がなく「街で作品を作ってください」というご提案だったので、「他人が他人の街に行って違った視点を持ち込むことで、他人の生活を勝手に見たてて面白がる」ようなことは止めようと思います。現段階では「架空の街を実際の街の上にかぶせていく」という方法を取ろうという話になっています。
西尾:静岡芸術劇場から歩いて25分ぐらいの池田という街の中で演劇をやります。池田についての一番の印象は土地が余っていて、余白があるなぁということ。ちょっとびっくりしたんですよね。静岡に毎週通って鈴木一郎太さんと大東翼さんと作っているんですが、私が「静岡」とざっくり捉えていたものの中にも、色々あるんだなと感じています。
最近読んだ小説でグっときたことがありました。飛行機から爆弾が落とされる時、ボタンが押されて投下されちゃうと、爆弾が落ちることはもう決まってる。人は終わりの予感があって初めて、爆弾が飛行機から発射されてから地面に着くまでの時間について、ものすごく考えられる。逆にそういうことがないと、人は“今ここ”をあまり感じられなかったり、考えられないんじゃないか。そういうことが書かれていたんです。爆弾というと大層なことですが、起こってないことについて考えることはとても難しいし、何でもそうだなと思います。
誰も皆、自分の住んでる場所はあるはずで、街というのは日本中、世界中にあるはずなんだけど、なかなか街をとらえることはできない。私たちが今回やろうとしていることは、出掛けて行って、“今ここ”という時間に向き合うこと。ただ、それはあくまでも“仮想”なので、結局、現実には追いつかないんですよね。作品に参加しているうちに、何かを見て、面白いことが起こるかもしれないんですが(色々準備します)、でも結局、観客は自分の街での自分の生活があるから、行き来することしかできない。見て、いろいろ考えたり感じたりはするけれど、「(現実への)追いつかなさ」もあることを描きたい。作品を見て、体験しても、生きている時間には絶対に追いつかないものがある。そこに帰っていかなければと話しています。
鈴木:他人の街に入って他人の生活を見ると、ある程度想像できますよね、あそこにはおばあちゃんがいるとか、子供が住んでいるとか。そうやって少しは想像できるんですが、結局はわからない。たとえば誰かが亡くなる等の大きな出来事があった時、想像をする幅がすごく狭まると思うんです(「悲しいだろうね」といった気持ちばかりになるから)。逆に些細な日常になればなるほど想像がどんどん及ばなくなる。池田の街の当たり前の日常の中に入らせてもらうので、一人ひとりの生活の違いが、違うまま、そこにある状態だと思うんですね。実際に行ってみても、想像は及ばない。追いつけない。西尾さんが言う「追いつけなさ」というのは、街と、そこに行く人との距離感の話じゃないかと思っています。
演劇に携わっている西尾さんと、もともとアーティストだった僕、そして建築の大東と、全く違うバックグラウンドの人間が、街というものを介して、予定調和にならないようなコラボレーションを、ぐずぐずと(笑)、クリエーションの中でやっていけたらなと思っています。
宮城:地域の劇場はどうやって開くことが出来るのかを考えています。主に東京で演劇活動をしていた時は、「演劇は民衆的な表現ではない」なんていう考えは1%も浮かばなかったんですが、SPACで各地の劇場に行ってみると「演劇は敷居が高い」と本当にしばしば言われる。とても意外で、最初の内は全くよくわからなかったです。先ほど申し上げた戦前のドイツの劇場について調べてみると、やっぱり劇場というのはひとことで言うと、教養があったり余裕があったり、持ち家があるような恵まれた人が行く場所。つまり演劇がわかる人たちというのは、社会の上澄みだっていうんですね(笑)。当時のドイツの世の中ではそれが当たり前のように思われていて、劇場から疎外されて、はじきとばされている人たちが、ナチス党に投票していった。静岡に来て「演劇は敷居が高い」という言われ方を初めて聞いて、ドイツの例は僕にとって遠い話じゃないと感じています。
今あらためて「民衆的な表現」とは何だろうと考えずにはいられない。ファシズム的なものが出てくる時は必ず、「民衆的な表現」が常に正しいとされる。「民衆的な表現」を錦の御旗にして、「民衆的じゃない」という理由によって、さまざまなものが弾圧され、多様性が失われていく。僕らが果たして本当に「民衆的な表現」をやれているかどうかを、常に自分に問わなくてはいけない。「民衆的な表現」という言葉は、僕にとってはあまりいい印象のない言葉だったんです。しかし今、世の中に、それこそ戦前のドイツやかつてのソ連のようなものを思わせる“気分”が蔓延してくる中では、「民衆的な表現」の真の意味を考え直さなければいけない。そして別の意味で言えば、僕らが「SPACは民衆的な表現をやっている」と胸を張って言えなければ、戦前のドイツの公立劇場と同じようなポジションに追いやられていくだろうとも思うんですね。
我々が同じ過ちを繰り返さないためには、我々自身が「民衆的な表現をしている」と断言できる資質を持たなければいけない。「民衆的」とは「既に世の中に作られている過半数の人がそう思い込んでいる価値観を追認すること」ではない。過半数の人の価値観を追認することを「民衆的」とは言わないのは確かなんだけれども、じゃあ何が「民衆的」なのか。そこを本当に考えなくちゃいけない。劇場を開いていくことには、そういう僕自身の問題意識もあるんです。今回の西尾さん、鈴木さんの作品が、僕にとっての刺激になってくれるんじゃないかと、とても期待しています。
共同通信記者:どのようなスタイルのパフォーマンスになるのか、もう少し具体的に教えてください。
西尾:おそらく3チームごとに分かれてツアーをします。ただ歩くだけではなく、きっと俳優に出会うと思います。何かのフィクションに出会うんですが、出会い方の按配を考えています。ツアーのガイドが目の前にいるけれど、面白そうなことが背後で起こっていたり。「これを見たらいいのね」と安心できる状態ではないところに、お客さんを持って行きたいと考えています。
■中島諒人演出・鳥の劇場『天使バビロンに来たる』(日本・鳥取) 写真:(C)中島伸二 ⇒公式サイト
解説:鳥取市で“鳥の劇場”を運営し、地域の中で国際的に開かれた作品作りを続ける中島諒人。今回、彼が描くのは古代都市バビロンを舞台にした、大人も子供も楽しめるポップな社会劇です。「人間が社会の中で自由に生きていくために必要なものは何なのか」というテーマのもと、地域資源としての演劇や、社会のためにできることを問い直す本作は、静岡初演となります。
宮城:東京で活動していた演劇人が東京以外の地域に行って、そこに劇場を作って、「多様性」を持ち込む。多様性を容認するとは、ひとことで言うと「寛容」でしょうか。僕よりもさらに一層、地域の中に「寛容」を持ち込む実験にフォーカスした活動をされている中島さん。本当に尊敬しています。楽しみにしています。
■林麗珍(リン・リーチェン)演出・無垢舞蹈劇場出演『觀 ~すべてのものに捧げるおどり~』(台湾) 写真:(C)CHIN Cheng-Tsai ⇒公式サイト
解説:今、注目を集める台湾舞踊界で、その頂点に君臨する無垢舞蹈劇場の初来日公演がついに実現します。世界各国で絶賛されているこのダンス・カンパニーを率いるリン・リーチェンは、ヨーロッパのテレビ局により「世界を代表する振付家8人」に、アジアからただ1人選ばれました。9年をかけて完成させたこの『觀』は、台湾の神話や民族儀礼などを原点としながら、極度に集中した身体により、高度に抽象化されたビジュアルで作られております。
宮城:いま世界の10本の指、あるいは5本の指に入ると言っていいかもしれない振付家あるいはダンス・カンパニーを並べた時に、まだ日本に来ていないのは無垢舞蹈劇場だけです。これは断言できます。なぜ今まで紹介されなかったのか。本当は国立劇場などで招聘してくれればいいのではないかと思うんですが。僕らが日本で初めて無垢舞蹈劇場を紹介できることになったのは、身に余る光栄なことだと思っています。これも1965年ごろ提起された、一種の近代的なものに対する批判、近代の芸術のパラダイムに対する批判から生まれた作品だと僕は考えています。ただ、それが驚くべき高度な次元まで洗練された。この地点まで行き得るということを見るだけで、僕らはとっても励ましを受けることが出来る。そういう作品です。
■イサーム・ブーハーレド、ファーディー・アビーサムラー演出『ベイルートでゴドーを待ちながら』(レバノン) ⇒公式サイト
解説:中東メディアで絶大な人気を誇る俳優による2人芝居が、この度、日本で初めて上演されます。しゃべりまくる2人の男。とりとめのないようなやりとりの中に浮かび上がるのは、長い内戦と宗教対立によって疲弊した、レバノン国民の絶望的な日常でしょうか。サミュエル・ベケット作『ゴドーを待ちながら』のシチュエーションにより、アラブ人演劇人特有の辛辣な風刺を交えて、祖国を描きます。中東のカルチャー・シーンの今を知るためにも貴重な作品です。
宮城:日常そのもの、現実そのものが、何よりも不条理だという中で生きている人たちが、一体どうやってその中で理性を保って行くのか。自分を見つめることが、一番のギャグになってしまう。自分の存在そのものを笑うことによって、自分を理性的に見る力を獲得していく。これも演劇の力をあらためて考えさせてくれる作品だと思います。
■イ・ユンテク(李潤澤)×演戯団コリぺ『小町風伝』(韓国) 写真:(C)演戯団コリペ ⇒公式サイト
解説:安アパートで孤独に暮らす老婆は、ある朝目覚めてインスタントラーメンを作りながら、かつて自分を激しく愛した若き軍人との恋を思い出す。もともと沈黙劇として上演された『小町風伝』。その語られなかった台詞が韓国演劇界の巨匠イ・ユンテクによって本作にあらわれます。韓国の伝統芸能の要素を多彩に取り入れた本作にご注目ください。
宮城:太田省吾さんは沈黙劇で世界的に知られるようになりましたけれども、『小町風伝』が岸田國士戯曲賞を受賞したことからもわかるように、『小町風伝』には沢山のセリフが書かれていました。実際に上演された時には僕も観ましたけれども、本当にわずかなセリフしか残らなかった。しかし、台本にはおびただしいセリフが書かれています。そのセリフがですね、これほど素晴らしい台本だったのか、身を斬るような、切実な言葉の群れだったのかと、あらためて驚かされた。ユンテクさんが水面下に沈んでいた言葉を地上に噴き出させた、そういう作品だと思います。
■ジャン=ミシェル・ドープ演出『聖★腹話術学園』(ベルギー) 写真:(C)V. Vercheval ⇒公式サイト
解説:昨年大きな話題を呼び、最新作も話題を集める鬼才アレハンドロ・ホドロフスキーの書き下ろし作品を舞台化したのは、常に新たな表現を模索するベルギーの劇団ポワン・ゼロ。等身大の人形を操りながら、奇妙な学園の生徒たちを演じる6人の俳優。人形の顔はそれを操る俳優たちにどこか似ています。ユーモラスで妖しい空間をお楽しみください。
宮城:ホドロフスキーといえば、僕にとっては寺山修二とのシンクロニシティーで出てきた双子なんです。今回の演劇祭では寺山の『田園に死す』とホドロフスキーの『ホーリー・マウンテン』を同時上映する企画もあります。『ホーリー・マウンテン』って日本語に訳すと“恐山”じゃないですか(笑)。
ホドロフスキーが戯曲を書いて30代の演出家が演出しています。夏にアヴィニョン演劇祭のオフで観たんですが、人形劇の劇団だったわけじゃないのに(笑)、「人形を使ってやると面白いんじゃないか」という一種の思い込みをとことんまで突き詰めて、「こんなに人形を巧く使えるのか!」という域にまで行っているんですね。僕は詩的な部分まではセリフの意味がわからなかったんだけれども、身体がそのままホドロフスキーの世界になっていると思いました。前衛というくくりとは関係なく、どなたが観ても「人間って面白いことを考える生き物なんだな!(笑)」と痛感させてくれる作品です。
■ポスターの絵について
宮城:この絵を描かれた前澤妙子さんは静岡県出身の画家です。つい最近までパリで創作活動をされていました。僕はオルタナティブ、あるいはアングラ小劇場というものは、普通に暮らしている今の日常とかけ離れた夢の世界にあるものじゃなくて、別の言い方をすれば、「日常から逃避して、そこでマニアックに遊んで、また日常に帰ってくる」という世界ではなくてですね、日常のただなかにある裂け目のようなものとして存在していなければ、その価値はないと思っていたんです。ちょうど前澤さんの絵は、普通の意味で可愛いと言われるような世界の中に、裂け目のようなものが覗いている。そう思って、是非この絵をポスターに使わせて欲しいとお願いしました。
■「ふじのくに野外芸術フェスタ2015」
「ふじのくに野外芸術フェスタ2015」は5月15日から7月12日まで、静岡市内と伊豆の国市で開催。詳細は公式サイトでどうぞ。
アヴィニョン演劇祭で大絶賛を浴びた『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』(関連エントリー⇒1、2、3、4)が、同演劇祭と同じくリング状の舞台を採用して上演されることにご注目!
ちょっと過激で楽しそうな路上パフォーマンス『身も心も』についての解説と、演出家ブリュノ・シュネブランさん、宮城さんからのひとことはこちら↓。
解説:昨年の水上パフォーマンスが好評を博した「イロトピー」が、静岡で1か月にわたる滞在製作をおこないます。『身も心も』は食と身体をテーマにした作品です。
写真:(C)Jean E. Roché
ブリュノ・シュネブラン(演出):我々の社会に残っている共喰いの痕跡を、この作品で語ります。誰かを愛することは最後には食べてしまうことです。俳優たちの役割とは観客に食べられること。俳優の身体そのものが演劇です。すぐにお会いしましょう。
宮城:静岡県内のわさび畑やしいたけの栽培所、海に近い市場でさまざまな食材を仕入れてきて、それを“食べられる樹脂”のようなものを使ったりしながら加工します。単純に言うと、人間の臓器の一部分のような造形物にするんです。美味しいものなんですが、パっと見るとグロテスク。それを俳優が体に貼り付けて町中に繰り出し、出会った人に体の一部分を食べてもらうという、驚くべきパフォーマンスです(笑)。
プレス発表会 司会:布施安寿香 横山央 フランス語同時通訳:横山義志
本日は「ふじのくに⇄せかい演劇祭2015」東京プレス発表会のため、アンスティチュ・フランセ東京に来ています。司会を務めるのは俳優の布施安寿香と横山央。たくさん取り上げていただけるようにがんばります! pic.twitter.com/I2Uk2JOo2K
— SPAC-静岡県舞台芸術センター (@_SPAC_) 2015, 3月 16
ふじのくに⇄せかい演劇祭2015 WorldTheatreFestivalShizuoka under Mt. Fuji 2015
主催:SPAC静岡県舞台芸術センター ふじのくに芸術祭共催事業 後援:静岡県教育委員会、静岡市、静岡市教育委員会
http://www.spac.or.jp/worldtheaterfestivalshizuoka_2015.html
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